子犬のキモチ



「神谷さん?」

今さっきまで楽しげに背中でさえずっていた声が聞こえない。
点々と灯る街灯も深い闇の全てを駆逐する事などできない深夜、
背中の温もりは穏やかな寝息を立てている。

「相変わらず弱いくせに飲むんですから・・・。
 悪い男に弄ばれたらどうするんでしょうね」

小さく呟いた自分の言葉に苦笑した。
悪い男が誰なのか、考えるまでもなく私は知っている。

酒を過ごさないようにしていた神谷さんに、自分が頼んだ女性向けの
フローズン系や生フルーツの入ったカクテルを何杯か飲ませた。
甘さが足りない、とか、少しアルコールが強い、とか、言葉の端に
僅かでも不満を滲ませれば、年上意識の強いこの人だ。
弟分の代わりにと、全て飲み干す事など計算済みだった。

「面倒見が良いというか、人が良すぎるというか・・・」

「・・・うん?」

桜も散ったとはいえ、夜にはまだ冷えるこの季節。
寒さを感じたのか神谷さんが身体を摺り寄せてきた。

「うふふ〜・・・お兄ちゃんv」

「・・・祐馬さん至上主義も変わらない・・・と」

軽く身体を振って、徐々に力の抜けていく背中の温もりを担ぎなおすと
首に回っていた細い腕がぎゅう、と力を入れてきた。

「くふ」

「はあ・・・やっぱり携帯を取上げて正解」

自分が仕向けた事とはいえ、あまりの無防備さに溜息が出る。
こんな姿を他の男になど見せたくなどない。
たとえ縁の深い彼だとしても。
店を出た時に終電が無くなっていると告げた私の言葉を聞き、まだ僅かに残っていた
正常な意識で斎藤さんに迎えにきてもらうと携帯を取り出した。

兄の祐馬さんに神谷さんの事を頼まれている斎藤さんが、今までにも何度か
酔ったこの人を回収し、マンションまで送り届けている事は聞いていた。
けれど今夜に限っては、彼に出番を与えるつもりなどない。
素早く携帯を取上げた。

「駄目ですよ〜。斎藤さんは締め切りが近いんです。邪魔したらいけません」

「ん〜、じゃぁタクシーで帰ろう! お姉さんがキミの家まで送ってあげるよ」

取上げられた携帯に伸ばす手を避け、背中を見せてその場に膝をついた。

「ご馳走してもらったお礼に、このタクシーなどどうでしょう?」

「ええっ? うちまで歩いたら1時間以上かかるよぉ」

「だったら私のところに泊まればいいですよ。ここからなら、そんなに遠くないし」

遠くないといっても1時間はかかる。
神谷さんは知らないが、彼女のマンションに程近い場所に住んでいるのだから。
けれどそんな事は悟らせない。

「う? イカンなぁ、少年よ。そんな事したらお姉さんに頭から食べられちゃうよぉ?」

ケラケラと笑う神谷さんに軽い口調で答えを返す。

「食べられるのは神谷さんの方だと思いますけどねぇ」

背中しか見ていない彼女は気づかない。
軽い口調とは裏腹に、私の瞳が鋭く光っていた事を。

「あっははは、良しっ! 食えるもんなら食ってみぃ」

勢いをつけ、神谷さんがドカリと背中に負ぶさってきた。
緩やかに口端を吊り上げながら軽い身体を背負って立ち上がる。


子羊は、自ら狼のあぎとに身を投げたのだ。



















表通りから外れれば街灯もグッと減る。
月の光に照らされてアスファルトに落ちた影が、遠い記憶を呼び起こす。

「よく・・・こうやって帰りましたよねぇ」

島原田圃をテクテクと、酔っ払った神谷さんを背負って何度歩いた事だろう。
背中に感じる軽さも温もりも、あの頃と何ら変わらない。

「皆が面白がって飲ませるから、すぐに貴女は酔っちゃって。
 しかも大トラになった貴女の相手は私に押しつけて」

何かといっては宴席を設けていた陽気な仲間達の笑顔が浮かんだ。
今も彼らの本質は変わってないから、それが可笑しい。

「まだ飲むんだと愚図る貴女を宥めすかして宴席から連れ帰るのが、
 どれほど大変だった事か」

はぁ・・・と溜息をついた途端に、神谷さんがごそりと動いた。

「うう。忘れてたぁ」

呟きと共に背中でもぞもぞ動く気配がする。

「どうしました?」

「永倉さんと原田さんのぉ、生存確認をしないと・・・」

そういえばあの二人は、冬眠から目覚めた稀少な熊と雪解けの風景、という
何やら解らないコンセプトを勝手に立ち上げて、北海道の雪山に乗り込んでいたはずだ。

「こんな時間に電話したって寝てますよ。明日にしましょう」

「でもぉ」

「神谷さんが心配しなくても、あの二人なら大丈夫ですって」

確か先々月もモンゴルの大草原で行方知れずになって散々こっちに心配かけたけれど、
本人達は到って元気に遊牧民のパオで迎えが来るのを待っていたのだ。
あの二人に限っては、たとえ冬眠明けの凶暴な熊だろうと自力で撃退するだろう。

「うう〜ん、そうかも〜。あぁ、でもぉ」

背中でフルフルと頭を振っている動きが伝わってくる。
ああ、そんなに首を振ったら・・・と止める前に、パタリと肩に額が押しつけられた。

「あう〜、気持ち悪い」

「そんなに首を振れば当然でしょう。背中で吐かないでくださいよ」

「だいじょぶ〜、まだ〜」

まだって何ですか、まだって。
微妙に顔を引き攣らせた私の事など気にする様子も無く、再び神谷さんがぶつぶつ呟く。

「じゃぁ、明日は・・・永倉さん達の生存確認とぉ、
 斎藤先生とぉ、伊東先生にぃ、原稿の締め切りをぉ」

「・・・神谷さん」

明日から皆も貴女も連休じゃないですか。
仕事の事なんて、忘れなさいよ。
そう言うつもりが、私の口を衝いて出たのは自分でも思わぬ言葉だった。

「沖田、先生・・・って呼んでみてくれませんか?」

「はぁ?」

あ、今きっと盛大に顔を顰めている。

「なぁんで?」

「う〜ん、何となく?」

記憶の無い人達が昔のように神谷さんに呼んで貰える事が、
いつも少しだけ羨ましかったのかもしれない。
私は呼んで貰えないのに。

「あ〜、でも沖田君も近藤社長の道場では、そう呼ばれてるんだよねぇ」

「ええ、まあ。一応師範代ですし、子供達もいますから」

「あはは〜。子供に囲まれてる子供かぁ。可愛いなぁ」

「子供扱いしないでくださいってば」

昔、神谷さんが散々私に言っていた言葉を、自分が言う事になるなんて。
くすくすと笑っている人を、軽く揺すり上げながら苦笑した。

「沖田先生〜! って懐かれてるの?」

「っ!」

唐突に耳元で囁かれたその言葉が、動き続けていた足を止めさせた。

「沖田君?」

息まで止めて固まった私の様子に不審を感じたのか、
神谷さんが顔を覗き込もうとする。

「・・・いえ」

ようやく出せた声は自分でも笑えるぐらいに擦れていた。
乱れかける呼吸を叱咤して整える。
この程度で動揺していては、今夜の謀(はかりごと)など為せないだろうと。

「ねぇ、神谷さん」

でも、どうせ、明日になればこんな会話をした事など、
この人は綺麗サッパリ忘れている事だろう。
ならば、少し、もう少しだけ。
月を見上げて息を吸う。

「もう一度、呼んでくれませんか?」

おきたせんせい・・・って。
遠くで吠える犬の声にかき消されかけた言葉も、神谷さんには届いたようだった。

「ん〜、じゃぁ、今夜はトクベツ〜。大盤振る舞いだっ。
 沖田先生っ! 沖田先生っ? お・き・た・先生っv」

『沖田先生っ! 大好きですっ!』

遠い過去の声が重なり、記憶の中にいる月代の少女が微笑む。



視界の中で、月が滲んだ。





















「着きましたよ、神谷さん」

かたりかたりと階段を登る振動が心地良かったのか、肩に頬を押しつけて
淡い眠りに落ちかけていた人をベッドに下ろした。

「ん? んん? ここ、どこ?」

「私のアパートですってば」

「うん? そ・・・か・・・」

「神谷さん、そのまま寝ちゃ駄目ですよ! スーツが皺になっちゃいますから!」

パタリとベッドに倒れこんだ人を慌てて起こす。
普段はラフな格好のこの人も、外部での打ち合わせが予定に入っていた今日は、
パキリとしたスーツ姿だったのだから。

「ん〜〜〜。うん・・・そ、か」

「ちょ、ちょっと!」

プチプチとジャケットのボタンを外して脱ぎ捨てたと思えば、
パンツのボタンに手を掛ける。
慌てて眼を逸らした私の目の前に神谷さんが片手を出した。

「あっち向いててね。んで、着替え、貸して〜」

「・・・・・・・・・・・」

後ろ手にパジャマを渡した私の横に、神谷さんの首元を飾っていたスカーフが、
ズボンが、ブラウスが・・・ストッキングまで次々と放り出されてきた。
確実に男として認識されていないと改めて身に沁みて片手で顔を覆う。

「あれ〜? ねぇ、沖田君」

「何ですか?」

気の抜けたような声に振り向くと、神谷さんがベッドサイドに
山積みされている本を指差した。

「これさ〜、最近必死に読んでた本だよね〜」

体育学科に在籍する自分に似つかわしくない情報処理の専門書が
意外に感じていたのか、首を傾げている。

「ええ。連休明けにレポート提出なんですよ。今はどこの学部でも
 この程度は基礎として履修科目に入ってますからね」

「うわ〜、こんなに読むんだ〜、大変だね〜」

「・・・・・・手伝って、くれますか?」

本当は明日の朝、一泊の宿代の対価に求めようと思っていた事を口にする。
すでにレポートはほぼ完成しているけれど、これを理由に
連休中の神谷さんの時間を独占するつもりだった。

「いいよ〜。ここんとこ毎日遅くまで仕事につき合わせてたから、
 レポートなんてやってるひま無かったでしょ〜?」

「ほんとですかっ?」

「うん、ほんと、ほんと〜」

慌ててポケットから携帯を引っ張り出し、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
明日になって忘れられてはかなわない。

「連休中の神谷さんの時間を私にくれるんですね?
 ずっと一緒ですね? いいんですね?」

自分に都合の良いように微妙に言い回しを変えても、
強く酔いの残る神谷さんは気づかない。

「いいよ〜。じゃ、私の連休はキミにあげちゃおう!
 ずぅ〜っと一緒だ。あははっ!」

「本当ですね? 約束ですよ、神谷さんっ!」

「もっちろんっ! 神谷セイに二言などぬわぁぁぁいっ!!」

言質は貰った。
薄く笑みを浮かべて机の引き出しから小箱を取り出す。

「ではお礼にこれをあげますよ」

中から取り出したリングを神谷さんの指に嵌めた。

「なに、これ?」

プラチナが鋭い曲線を描き、片面で交差する。
重なった場所に小さな深紅のルビーが置かれていた。
まるで打ち合わせた剣の間に落ちた一滴の血のように。

「お礼です」

「何、誰かに突っ返された?」

神谷さん・・・酔ってるにしても、その言い方は酷くないですか?
それは貴女のものなんですよ?

「違いますよ。神谷さんに似合いそうだな〜、って思ったんで買ってたんです。
 いつも仕事ではお世話になってますからv」

「ふぅ〜ん・・・。でもさ、ここはマズイでしょ?」

ピンと右手の細い指が左手の薬指に嵌められた指輪を弾いた。
酔っているのに、そういう事には意識が回るのは女性だからか。

「いいんですよ〜。サイズもそこに合ってるし、私の愛なんですからv
 どうせだから記念写真を撮りませんか? 神谷さんの初訪問記念v」

喋りながらバサバサと服を脱ぎ捨て、パジャマのズボンを身につける。
滅多に見ない指輪のデザインに見入っている神谷さんは
私の動きになど注意を向けていない。
その隙に彼女の隣に座り、片手で携帯を操作した。

「ほら、笑ってくださいよ」

二人の方へ携帯を向け、神谷さんの指が目立つように写真を撮る。
反射的に笑顔を浮かべる人は、これが後でどんな意味を持つのか
理解してなどいないだろう。
何枚か撮った後でようやく首を傾げた。

「でもさ、やっぱりこれは違うでしょ。
 沖田君が本当に渡したかった人にあげないとね」

指輪を外そうとした細い指を強く握り締める。

「駄目です。これは、貴女のものなんですから・・・」

「ちょっと、沖田君、酔ってるの?」

酔ってるのは貴女でしょう、神谷さん。
弟分を相手にしてると安心しきって無防備に。
気遣わしげに頬に当てられる手の平の熱さが、私の内に押し込めていた
荒ぶる闇を解き放とうとする。

「こういうモノは酔った勢いで誰かにあげたら駄目だよ。
 本当に大事な人に渡すべきでしょ? 沖田君らしくない」

「・・・・・・大事な人なんて一人だけですよ。
 思い出してもくれませんけどね・・・・・・」

ぼそりと呟いた言葉は神谷さんの耳に届かなかったらしく、
小さく首を傾げながら顔を近づけてきた。

「嘘つきの神谷さん。それは本当に貴女のものなんですよ」

言葉を放つと同時に唇を重ね、逃げられないように頭と腰に腕を回す。
驚きの形に見開かれた瞳を確かめながら細い身体をベッドに押し倒した。


もう、逃がさない。





















この世界で神谷さんに出会ったのは高3の初夏だった。

出版社とは名ばかりの幽霊会社であっても、いい加減まともな社員が必要だろうと
前々から言っていた近藤先生が、土方さんの反対を押し切って入社させたのは
大学を出たての女性だと聞いた。
それまで近藤道場の手伝いをする事はあっても、会社の話など時折漏れ聞く程度
だった私が、その新入社員に興味を持ったのは何かに導かれたのかもしれない。
奥さんから近藤先生への届け物を頼まれたのを幸い、会社へと向かった。

マンションが立ち並ぶ一角にその出版社はある。
正確に言えば、マンションの一部を改造してオフィスとして利用している。
エレベーターを下り、ドアの前に立とうとした瞬間、
慌しく開いたドアから一人の女性が飛び出してきた。

「神谷君っ! 間に合わないようなら、タクシーを使っていいから!」

聞きなれた近藤先生の声も耳に入らなかった。
ぶつかりかけた自分に謝罪の言葉を投げて走り去っていった人。
その後姿がエレベーターの中に消えても、その場から動けないほどの衝撃が
私の身体を貫いていたのだから。 


知ってる。

私は貴女を知っている。

やっと、会えた。

神谷さん。


閉じたドアに寄りかかって全身の力を抜いた私の耳に
ドア越しの会話が漏れ聞こえてきた。

「悪い事をしてしまったなぁ。約束があると知っていたなら、
 もっと早く帰らせてあげたんだが」

「近藤社長のせいじゃないですよ。神谷の性分じゃ、どっちみち
 仕事が一段落するまで梃子でも動かないでしょうし」

聞き覚えのある声は時々近藤先生の家で食事をしていく永倉さんのものだ。

「だがなぁ。久々に会うんだろう?」

「まあ、大阪と東京の遠距離恋愛ですからね。1ヶ月ぶりらしいが、
 離れてる間に思いも深まるってもんじゃないですか?」

「深まった挙句、入社早々寿退社なんて冗談じゃねえぞ」

「土方さんは本当に神谷と相性が悪いよなぁ。大丈夫だろうよ。
 確かに付き合いはそこそこ長いらしいが、最低1年はここで
 仕事を覚えるって兄貴の祐馬と約束しているらしいからな」

「ははは、神谷君は祐馬君との約束だったら違えたりしないだろうな」

その後も続く近藤先生、永倉さん、土方さんの声が
ぐるぐると脳内をかき回した。
先程までの歓喜は去り、指先まで凍りついたように感覚が失せている。

よろりと身を起こし、表情を消して部屋へと足を踏み入れた。
頼まれた荷物を渡し、その場を離れるまで自分が何を口にしたのか覚えてもいない。
気づいた時には道場で丸太のような木刀を振るっていた。



物心がついた頃から繰り返し見ていた夢。
一途な瞳の月代の少女と、燃え盛る激情を身の内に閉じ込め続けた
不器用な武士が過ごした、短くも濃密な時間の夢。
ずっと夢だと思っていた。
元来の性分からか深く考える事もせずに過ごしていた私だったけれど、
ある日鏡の向こうに夢の武士と瓜二つの姿を見つけて愕然とした。

流れ込む大量の記憶。
切なさ、痛み、慕わしさ、未練、苦しさ、嘆き、愛おしさ、
そして最後に残ったのが祈り。

貴女だけは、どうか幸せに。

ただそれだけが最後の願いだったはずだ。
だからこそ、手放した。
京の屯所で、江戸へ戻る船の中で、今戸の隠れ家で。
幾度も貴女が誓い、私にも頷かせた言葉を無かったものとして。


『私は絶対に沖田先生のお側を離れたりしません。
 今生では勿論の事、たとえ生まれ変わろうと絶対に!
 とことんまで執念深くお側について回りますからね!』

『はいはい。そう何度も言わなくても分かってますよ。
 男だろうと女子だろうと貴女の粘り腰に私が勝てないなんて事は。
 もしかしたら生まれ変わった時には、男女が入れ替わってるんじゃ
 ないでしょうかね』

『あはは、それも良いですね。だとしても、絶対に私は沖田先生を
 見つけて見せますよ。だから先生も・・・』


生まれ変わったら・・・そんな話を多くするようになったのは、
大坂城に居を移した頃からだったろうか。
仲間達が一人、また一人と失われ、私の身体も眼に見えて弱った頃。
先に明るさを見出せなくなった私が、貴女に笑みを与えられる
数少ない話題がそれになっていた。
その時もいつものように貴女が笑って返してくれていたのに。

『絶対に離れないって約束、してください。来世なんて、どうでもいい。
 私を置いていかないって・・・。お願いです、沖田先生』

大きな瞳からぽろぽろと涙を零し、神谷さんが私を見つめた。
縋るように重ねられた手の平が震えている。

『何を泣くんですかねぇ。今の私がどこに行けると言うんです?
 この今戸の隠れ家を離れようにも、自分では一町も歩けやしないのに』

『それでも、です。お願いです。約束してください!』

執拗に言葉を乞う神谷さんは、何かを予感していたのかもしれなかった。
勘の鋭い人だったから。

この翌日、久々に食欲が出たから甘味が食べたいと強請った私の為に、
神谷さんが隠れ家を離れた間に私は療養場所を移動した。
あの人を置き去りにして。

私の居場所は近藤先生と土方さん以外は知らない。
その二人は戦の為に方々を移動していて、神谷さんが容易く居場所を
つかめるはずはない。
万が一問い詰められても、けして口にはしないと誓ってくれていた。
後の事は任せろと、誰よりも敬愛する二人が請け負ってくれた。
私の憂いを除くために。


神谷さん、綺麗な貴女を修羅の道に引き込み、情に流されて
手放せなかったのは私の罪です。
死病に侵された私の血に塗れた衣や寝具を泣きながら洗う貴女を見るたび、
いつこの病がうつるかと私がどれほど怯えていたか知らないでしょう。
己の命が潰えるのは、すでに定めと覚悟を決めた。
けれど貴女にだけは、こんな思いをさせたくない。

貴女は、どうか幸せに。
私の事など忘れてください。

命尽きるまで、うわ言のように心で呟き続けた祈り。
呼吸もままならない発作の中で、愛しい面影に幾度手を伸ばしかけたか。
それでも手放した人の幸いだけを祈り、ただそれだけを夢見ていた。
混濁する意識の中で脳裏を掠めたのは、たわいのない約束。

『生まれ変わっても絶対に一緒です!』

可愛らしい声だけが命消える最後まで、私の傍らにあった。



この世界に新しい生を受けた私が完全に記憶を取り戻した時には、
近藤先生も土方さんも井上さんもすでに身近な存在だった。
時と共に山南さんや永倉さん、斎藤さんや原田さん達も集ってきた。
けれど誰一人として過去の記憶など持っていなかった。
魂のどこかに残っている記憶の残滓が仲間達を近づけているとしても、
私の中の昔の沖田は一人きりで過去の世界に置き去りのままだ。

途方に暮れた私の中の唯一の光明が神谷さんだった。
私だけが記憶を残しているのは、あの人との約束があったからだろうと。
忘れたりしない、必ず見つける、と誓ったあの人が私と再会した時、
私が忘れているなどあってはならないのだから。

だから探した。
電車の中で、図書館で、街角の雑踏の中でも。
落ち着きが無いと土方さんに何度叱られようと、神谷さんの姿を探し続けた。

そして、ようやく出会った。
見つけた。



遠い昔、舞い散る枯葉を打ち据えて心の平静を取り戻そうとしたように、
真っ暗な道場で木刀を振るい続ける。
けれど一向に乱れた心は治まらない。

あの人は私を忘れていた。
ドアがぶつかりかけた私に謝罪した時、確かに私の顔を見たのに
神谷さんの表情には何の揺らぎも見えなかった。
見知らぬ他人を見る瞳で、礼儀としての侘びを唇に乗せた。
そして一度も振り返らず、恋人に会いに駆けて行った。

恋人に、会いに。

――― ガタン

力の抜けた手から滑り落ちた木刀が鈍い音を立てた。
それを追うようにその場に崩折れる。
ぽたりぽたりと顎先から滴り落ちた汗が、床に染みを作った。


私が千駄ヶ谷に移った後の貴女の事は何も知らない。
病の私に余計な事を語るなと、土方さんあたりが頼んでいたのか
誰も何も口にしなかった。

けれど、貴女は私を恨みましたか?
貴女は私を憎みましたか?
忘れてしまいたいと、共に過ごした全てを捨てたのですか?

『何があっても離れません。生まれ変わっても絶対に一緒です!』

あの誓いすら疎ましいものと思ったのでしょうか。
でも、私は貴女を死病から遠ざけたかった。
貴女だけは幸せに、貴女らしく陽光の下で笑っていて欲しかった。
だから、貴女を置き去りにした。

私だけが記憶を残していたのは貴女との約束を守る為ではなく、
多くの命を奪っておきながら主君への働きも満足に出来ず、
清らかな貴女を修羅とした、罪に穢れた男への神仏の罰だったのですか?
そして約束を裏切った私を覚えていない事が、貴女が与える私への罰?

ねぇ、神谷さん。
会いたかったんですよ、神谷さん。
私は、今度こそ、貴女と・・・。

――― ぽたり

汗ではない水滴が新たに落ち、床に歪な円を描いた。


「・・・・・・神谷さんの、嘘つき・・・」





















驚きに見開かれた神谷さんの瞳を見つめたまま、
押し当てていた唇を一度離した。

「貴女を、愛してる」

昔、どれほど言いたくても口にできなかった言葉。
昨日まで、何度も飲み込んでいた言葉。
もう抑えない。
抑えるつもりもない。
どんなに強固な岩礁であろうとも、打ち砕き飲み込む波浪のような
私の想いを止められるものなどない。

前の世で貴女が私を風に喩えた事があったけれど、
貴女の頬を優しく撫でる風は昔の沖田だ。
今の私は全てを力任せに蹂躙し、荒れ狂う竜巻にしかなれない。

「お、きた君?」

震える唇が私を呼ぶ。

「愛してる」

あの頃と少しも変わらない、どこか気の強そうな眉に触れ。

「愛してる」

秀でた額と柔らかな線を描く生え際に指を滑らせる。

「愛してる」

生き生きと輝く黒目がちな大きな瞳を覗き込む。

「愛してる」

滑らかな頬を撫で、唇を指先でくすぐる。

「もう、離さない。貴女は、私の、ものだ」

瞳に力を込めて告げた言葉に、神谷さんの身体が強張った。
正しくは同時に放たれた私の気によって、動けなくなったのだろう。
昔であれば剣気、今なら闘気とでも言うのか。
並の人間がまともに受けるには強すぎるもの。
本能的に身体が竦み、縛られたように硬直する。
それを承知であえて向けた激情。

怯えの滲む瞳に優しく笑いかけ、再び唇を重ねる。
今度は深く。
噛みつくように。

縮こまった舌を掬いあげ少し乱暴に絡めると、神谷さんの眉が寄せられる。
与えられた刺激に硬直が解けたのか、小さな手が私の肩を押しのけようと動く。
けれど華奢な身体では、男の体重を跳ね除けるなど不可能だ。

ああ、こんなところも変わらない。
無駄な足掻きを繰り返すひと。

「・・・んっ! んんんっ!」

必死に背けようとする顔も、頭の後ろに回した手で固定する。
もっと深く。
角度を変えて、何度でも。
もっと、もっと欲しい。
呼吸も言葉も全てを貪り続ける。
愛しくて、愛しくて、愛しくて。

「・・・ふっ・・・んん・・・」

酸素が足りなくなったのか、徐々に赤味の濃くなる頬を見て
ようやく唇を離してあげれば、必死に呼吸を繰り返す人が愛しい。
愛し過ぎて、理性が焼ききれる。

再びの柔らかさを求め首筋に唇を押し当てると、
荒い呼吸をしていた神谷さんの身体が震えた。

「おっ、沖田君っ! もう、いい加減にっ・・・」

そんな言葉は聞かない。聞こえない。
強く吸いつき、色づいた跡を舐めあげる。
くすぐるように、時に歯を立てて。

「・・・やっ!」

私を突き放そうとする神谷さんの両手を片手で握る。
これだけでもう貴女は動けない。
細い手首も、そこに透けて見える血管もあの頃のままだ。
ああ、やはり愛しい。

「駄目ですよ。貴女はもう逃げられない。そう言ったでしょう?」

喉の奥で弾けそうになる笑いをどうにか飲み込み、声音だけ優しく響かせた。
けれどきっと私の瞳は獰猛な輝きを放っている事だろう。
狂った獣のように。

神谷さんのパジャマに手を掛け、一つずつボタンを外す。
焦ったように身体を捩り、何とか逃れようとする動きさえ愛しい。

白々とした白熱灯の下に曝された形の良い白い胸。
ああ、ここは・・・あの頃とは違いますね。
切なく細めた瞼の裏に、出会ったばかりの頃に偶然垣間見た
幼げで控え目な膨らみが甦る。

前の世の神谷さんも、こんな風に成長していたんでしょうか。
そして私が逝った後は誰かの妻となり、こうして触れさせた?

胸の奥に斬りつけられたかの痛みが走った。
無意識の内に呼吸が乱れ、苦しいほどの眩暈が襲う。
すがるように目の前の膨らみに顔を埋めた。





ようやく出会えた神谷さんに恋人がいる。
その衝撃は大きすぎた。
数日ぼんやりと過ごし、整理のつかない頭で何とか辿り着いた答えが
前世の沖田の記憶を全て忘れる事だった。

あの人が覚えていないなら仕方が無い。
前の世で私が願った通りになっているだけじゃないか。
私の事はすっかり忘れ、きっと幸せな生涯を送ったのだろう。
仏道において師弟の絆は三世といい、夫婦の絆は二世という。
師弟としての繋がりがあればこそ、この生でも出会う事を許され、
恐らく次の世でも関わる事になるだろう。
それで良いと思えばいい。
それだけでも幸いなのだ。
そう思おう。
幾度も幾度も繰り返して自分に言い聞かせた。

そして灰色の受験生暮らしを経て大学に入学してからも
極力近藤先生の道場以外には関わらないように、
神谷さんの話題から遠ざかり、耳を塞いでいた。

夫婦の絆が二世というなら、今のあの人の恋人が前の世で
神谷さんを幸せにした人なのだろうか。
そう思うと嫉妬と羨望に目の前が赤く染まった。
けれど神谷さんの幸せを望んだのは他でもない、自分なのだから。

忘れよう、考えるまい、どれほど心にそう言い聞かせても、
繰り返される夢が沖田の記憶を掘り起こし、沖田の想いを忘れさせない。
今の自分は別の人間なのだと恋人を作り、年相応の経験をしようとも
満たされない魂は狂う程に飢えたままだった。



「いつまでそんな顔をしてるつもりだ?」

ふらふらと遊び歩く日々の中、これだけは律儀に続けていた道場での稽古を終えると
それを待っていたように声をかけられた。

「土方さん?」

前の世と同様に近藤先生の幼馴染として生を受けたこの人とは、幼い頃から
顔を合わせる事が多かったが、母屋ではなく道場に現れるのは珍しい。

「やだな。お説教でもしに来たんですか?」

「説教されるような心当たりがあるのか?」

いつにも増しての不機嫌そうな声音が可笑しい。
表向きは素っ気無いくせに、実は情が深く面倒見の良い所は今も変わらない。

「さあ? 少なくともタラシの土方さんに意見されるような覚えは無いですけど?」

「あのなぁ・・・総司・・・」

呆れたような溜息を吐きながら私の前に立った土方さんが苦笑する。

「別に俺はお前が何をしようがお前の勝手だろうと思うさ。近藤さんや源さんが
 心配するのはわかるが、お前だってもう子供じゃねぇ。多少は破目を外したところで
 取り返しのつかない事をするほどの馬鹿じゃないだろうからな。だが・・・」

こつん、と拳で私の額を小突く。

「ちっとも楽しそうじゃないんだよ、お前は」

何を抱えているんだと言外に問いかけられても、答える事などできず眼を逸らした。
そんな私の様子を見た土方さんも無理に聞き出すつもりはないようで、
もう一度溜息を落とすと背を向けた。

「いずれにしろ、俺には今のお前が正しいとは思えねぇけどな」

ぴくり。
その一言に私の身体が震えた。





















「本当にいいのか・・・」

「はい、お願いします」

「だが・・・」

「トシ。総司の頼みだ」

「それはわかっちゃいるが」

追われるように大坂から戻った江戸の地で、最初に滞在したのは西洋医学所だった。
明日は松本法眼の知る辺を頼って今戸の隠れ家へ移るという日、
近藤先生と土方さんが揃って私の病間を訪れた。

試衛館からの昔なじみに気を使って神谷さんが席を外した時に、
私は二人に頼み事をした。

「あれほどお前の側にいる事を望んでいる神谷を、引き離すのは難しいだろうが」

「だからあの人には内緒にしたいんですよ」

近藤先生はすぐに納得してくれた。
けれど神谷さんの気性を熟知している土方さんは最後まで渋っていた。

「お前と引き離された神谷が幸せになれるとは、どうしても俺には思えねぇがな」

「大丈夫です」

私は土方さんの瞳を真っ直ぐ見つめて笑う。

「確かに暫くは悲しむでしょうし、私の事を恨むかもしれない。
 けれどあの人はどんな逆境でも前に進める人なんです。
 そしてそんなあの人を周囲も放っておかない。
 差し伸べられる手を振り払う人ではないのだから、いずれは必ず
 与えられた優しさに応えようとするでしょう。
 そして今度こそ日の下であの人らしく生きていく」

「総司・・・」

近藤さんが悲しげに俯いた。

「このまま私の傍らにいては病がうつるか、そうでなくとも武士としての立ち位置に
 縛られてしまう事でしょう。私はそれを望まない・・・ですから・・・」

「わかった。わかったとも。神谷君の事は私とトシが引き受けよう。
 お前の居場所はけして明かさない。なぁ、トシ」

涙声の近藤先生が土方さんを振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いた。

「トシッ!」

「お願いします、土方さん」

近藤先生と私に重ねて乞われ、渋々頷いた土方さんは鬼の副長の顔では無かった。
けれど私はようやく安心できた。
不承不承ではあろうとも一度約束した事を違える男達ではないのだから、
これで神谷さんの今後に心配はないだろう。

私の傍らに置けない理由はもう一つあった。
このまま共に居て私が死んだなら、きっとあの人は後を追うだろう。
近藤先生に何かあれば、必ず私も追い腹を切る・・・繰り返しあの人に語った事が、
今はたまらなく厭わしい。
あの人の心にそれは規定の事象として刷り込まれてしまっているだろうから。

けれど、私から離れ、私の生死がわからぬままなら?
しばらくは探す事だろう。
それでもきっと見つからない。
頼れる兄分達が見つからないようにしてくれるはずだ。
生死がわからぬままでは、あの人だって追い腹を切ったりしない。
そして過ぎる時の中で、きっと私への記憶も薄れていくのだろう。
それをただ願うばかりだ。

愛しい娘の幸せのために。


「総司」

瞼を閉じ、思考に沈んでいた私に土方さんが呼びかけた。

「約束したからには守るがな、俺にはそれで神谷が幸せになれるとは思えねぇ。
 お前が正しいとは思えねぇんだよ」

哀しい託宣のような声音は、その後も私の胸に残っていた。




小さなきっかけから容易く記憶の扉が開かれる。

神谷さん、神谷さん、神谷さん。
あの時の土方さんの予感が正しかったというのですか?
貴女はあの後、どんな時を過ごしたのです?
私を忘れてしまったのは、何故?

どれほど封じようとしても仕舞いこめない激情に胸を掻き毟る。

もう無理だ。
誰もあの人の代わりになどなれない。
身代わりなんて面倒なばかりだと、ようやく悟って何人目かの恋人と別れた。

誰にも心を明け渡さず、失った過去に縛られて一人きりで生きろというのが、
前の世で神谷さんを悲しませた私への罰なのだろう。
だったらそれも良い。
あの人との記憶がある限り、私の心には他の誰も住むことなどできないのだから。
遠くから神谷さんの幸せを見守り続ける。

そう、覚悟を決めた時だった。
近藤先生の所へ遊びにきていた土方さんの言葉に耳を疑ったのは。

「神谷のやつもいい加減新しい男の一人や二人、作りゃいいだろうに」

胸倉を掴むようにして土方さんに迫り聞き出したのは、
神谷さんがとっくに恋人と別れていた事だった。
同時に近藤先生から会社でバイトをしないかと誘われていたのを思い出す。
あまり神谷さんの近くに寄っては、どこかで自分が押さえられなく
なるんじゃないかと不安で、迷っていた返事を即座に伝えた。

その日から私の中の獣が、獲物に飛び掛る瞬間を狙い続けていたのだ。
希望と絶望と諦観を行きつ戻りつしながら、
緩やかに狂っていった飢えた獣が。


ねえ、愛しい神谷さん。
だから貴女は逃げられない。





















「神谷さん、神谷さん、神谷さん、神谷さん」

呟く毎に新雪のような肌に痕を刻む。

「沖田、君っ!」

微かな痛みが走る度、神谷さんが身を捩る。
けれど、やめない。
やめられない。

前の世でこの人を得た人や、現世で恋人だったという人が憎い。
私の知らないこの人を知ってる男達が妬ましく許しがたい。
離れないでとしがみつく細い腕を跳ね除けたのが自分自身でも、
黒く蠢く嫉妬の靄を払う事ができないのだ。

大切な人だったから。

主君と定めた男の為ならたとえ相手が誰であろうと刃を振り下ろす事に
躊躇いなど持たなかった私が、どうしても斬る覚悟を定められなかった娘。

恋い慕い、慈しみ、不器用に愛した。
ただひとりの穢れ無き乙女。
他人の血と己の血にまみれた男が、唯一守りきった清らかな少女。


昔の仲間の誰一人として過去の記憶が無い事に驚きもしたが
どこかで理解できていた。
恐らく彼らはそれぞれが納得いく生を生ききったのだろう。
それが志半ばであろうとも、悔いを残すような死では無かったはずだ。
だからこそ綺麗に一つの生を完結させて、新たに今を生きている。

けれど、自分は違う。
忘れられない、忘れたくない、手放せない思いがあった。
前世で先の無い自分だからと押し込めていた執着は、
時を越えても手放せない程に深いものだったのだ。

神谷さんと再び会いたい。
二度とあんな哀しい涙を流させないよう守りたい。
言葉に出来なかった想いで、呼吸さえ出来ないほど包みたい。
愛し愛され、離れる事無く生きたい。
神谷さんに、会いたい。

それが魂に刻まれた執着。




「・・・思い出して、くださいよ・・・」

またひとつ、痕をつける。

「ねえ、神谷さん」

そして、もうひとつ。

「忘れない、って言ったじゃないですか」

今度は少し強めに。

「いいかげんにしてっ、沖田君っ!」

悲鳴のような神谷さんの声に顔を上げると、怯えた瞳がそこにある。

「何を言ってるのかわからないよっ! 私は何も忘れてない!
 何も思い出すような事はないっ!」

「神谷さんっ!」

「離してっ!」

全身で私を押しのけようとする神谷さんを抱き締める。
ぎゅうぎゅうと、骨が軋む音が聞こえるほどに。

「嫌だっ! 嫌ですっ! 嫌ですよっ! 嫌・・・なんです・・・」

自分の声が掠れていくのがわかった。
きっぱりと否定された絶望が胸を食い荒らす。
ぽっかりあいた空洞を、ひゅうひゅうと乾いた音をたてて冷たい風が吹き抜ける。

「できない。できません。離せない。離せないんです」

きっと自分は狂ってる。
病床でひっそり育んでいた愛執という狂病に魂まで冒されて。
それでもどうしたら良いのかわからない。
わからないんですよ、神谷さん。

――― ぽたり ぽたり

白い胸を鮮やかに彩る朱痕の上に、透明な雫が滴り落ちた。
次から次へと雨のように。
それが自分の涙なのだと気づいたのは、柔らかな指先が頬の水気を拭ってくれたから。

「・・・神谷さん?」

「何を、泣いてるの。・・・泣かないでよ、沖田君」

『泣かないでください、沖田先生』

高台寺党に狙撃された近藤先生が、二度と刀を振れないだろうと聞いた夜、
ただ一度だけ私は泣いた。
耐え切れず零れた一滴の涙を拭ってくれた優しい白い指先が、
変わらぬままに頬に触れる。

「神谷さん・・・」

水の幕の向こうには困ったような瞳がある。
そこに先刻までの怯えや嫌悪感が見えない事に肩から力が抜けた。

「あのね、本当に何を言われてるのかわからないのよ、私」

「・・・神谷さん」

「ご、ごめんね」

よほど私が悲しげな顔をしたのか、神谷さんは慌てて謝る。
記憶の無い貴女が謝る必要なんて無いのに、相変わらず優しくお人好しな人だ。

「でもさ、何を忘れてるのかわからないけど、それってそんなに大事?」

「大事って・・・」

決まってるでしょう! そう叫びかけた私の言葉を遮って、
神谷さんが口早に言葉を継いだ。

「だって無いものはしょうがないし。欠けた部分は埋めれば良いのよ」

「・・・・・・・・・・・・」

「沖田君も私もここにいるし、時間はいっぱいあるし、ね」

「・・・・・・・・・・・・」

「そのうち落し物も出てくるかもしれないし?」

えへへっ、と暢気な笑声に今までの緊迫感が一気に崩れる。
全身から一気に力が失われた気がして、そのまま神谷さんの胸に突っ伏した。

「ちょ、ちょっと沖田君。離れてってば」

すりすりと頬を胸にこすり付ければ、頭上から落ちる焦った貴女の声。

「くっ、くくくっ・・・あっ、ははは、あはははっ、はははははっ!」

もう笑うしかないじゃないか。
記憶の無いこの人を手に入れようと必死に慣れない策を弄しても、
軽やかな一言で重苦しい私の枷を打ち破る。
私にとって自分の存在価値の根源ともいうべき二人の記憶を
サラリと落し物扱いするなんて。

「あはは、あっははは。あははははっ!」

ひどいですよ、神谷さん。
ひどい。
ひどすぎる。
あまりにも酷すぎて・・・もう、笑うしかないじゃないですか。

「お、沖田君? 大丈夫?」

息継ぎさえできずに笑い続ける私の正気を疑ったのか、
神谷さんが不安げに顔を覗き込んできた。
その唇に口付けをひとつ。

「沖田君っ!」

瞬時に頬を染める可愛い人を抱き締めた。

「確かに時間はたっぷりありますよね。ええ、たっぷりと」

抱えた神谷さんと共にベッドに横たわる。

「・・・沖田君?」

毒気を抜かれ、先程までの狂熱が醒めた私を怪訝な顔で見つめる貴女。
黒曜の瞳には穏やかな笑みを浮かべた男が映っている。

「どうせ酔っ払いの貴女は明日には全て忘れてるんでしょう?
 続きは明日、ちゃんと正気の貴女と話しますよ」

「なに、それ?」

「いいから・・・もう寝ましょう」

わけがわからないとブツブツ文句を言ってる人の髪を
宥めるように何度か梳いた。
サラサラと指通りの良い素直な髪も変わらない。
過去の貴女と変わらないものを、ひとつ、またひとつと見つけては
胸の内で安堵の吐息を零す。

可愛らしい文句を並べ立てていた唇の動きが緩やかになり、
伝わる体温が眠りへ導く。
ほどなく聞こえてきた寝息が懐かしさを募らせた。
布団を並べて眠った日々。
いつも隣にあったのは、この微かな寝息だったのだから。


私はいつまで忘れられない記憶と癒えぬ痛みを抱えていくのだろうか。
愛しさと悔恨はあまりに深く刻まれて、自分では癒す術など見つけられない。

魂をぎりぎりと縛り上げる狂愛の糸は消える事はないだろう。
薄れる事の無い愛執は自分を傷つけるだけでは飽き足らず、
いずれ愛しい人までも苦しめるのだろうか。
欠けた貴女の記憶を責め立てて・・・。

『欠けた部分は埋めれば良いのよ!』

不安に飲まれかけた思考に、ふいに先程の貴女の言葉が甦った。
思わず腕の中の顔を見つめると、くうくうと幸せそうに眠る人。

「平和ですねぇ。男の腕の中で無防備というか、なんというか」

呟きが聞こえたわけでもないだろうが、貴女の頬がにへらと緩んだ。
その表情に、あれこれ悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。

「もう、良いですよ。元々私は考える事は得意じゃないんです。
 状況証拠は揃えたし、後は一気に力押しにします!
 覚悟、してくださいね」

手繰り寄せた貴女の左手で指輪が輝く。
重なる刃に誓いを込めた口付けを。
前世の沖田と今の私、二人分の愛情をたっぷり注いであげますから。

「・・・逃げられるなんて、思わないでくださいね」

耳元で囁いて、私も瞼を閉じる。
胸の中に蹲る餓えた狼を、そっと宥めながら。












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